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東京高等裁判所 昭和39年(ネ)596号 判決 1966年9月27日

控訴人 楠本好雄

被控訴人 中島梅野 外四名

主文

一、原判決中控訴人敗訴の部分を次の通り変更する。

(1)  控訴人は被控訴人中島梅野に対し金一〇万円、被控訴人菅原淑子、同中島照夫、同中島明子、及び同中島和夫に対し夫々金五万円づつ並びにこれら金員に対する各昭和三六年二月二四日以降完済迄年五分の割合による金員を支払え。

(2)  被控訴人五名のその余の請求を棄却する。

二、訴訟費用は第一、二審を通じて二分し、その一を控訴人の負担、その余を被控訴人らの負担とする。

三、本判決は被控訴人五名勝訴の部分に限り仮にこれを執行することができる。

事実

控訴代理人は『原判決中控訴人敗訴の部分取を消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審を通じ被控訴人らの負担とする。』との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述並びに証拠関係は、次に述べるほか原判決事実摘示と同一であるから、これをここに引用する。

(証拠省略)

理由

(一)、概要。

控訴人楠本好雄が医師で、鎌倉ヒロ病院を経営し、訴外田中達が同病院に雇傭され、外科部長として勤務する医師であること、亡中島忠行が昭和三五年一一月二〇日右病院で院長控訴人楠本の診察を受けた結果、胃癌の疑があるとして胃の切除手術を勧められ、同月二六日同病院外科に入院し、同月三〇日訴外田中達医師の執刀により手術を行い、胃内部に三個のポリープを発見して、胃の下部約三分の二を切除し、胃の残部を小腸に吻合したこと、後日判明したところによれば、右の吻合部位が空腸曲より肛門側へ一米五〇糎ないし二米の位置であつたこと、同年一二月二二日忠行は退院したが、翌昭和三六年二月一二日再び同病院外科に入院し、同月一八日訴外鈴木正弥医師の執刀により再び開腹手術を行い、腸及び膜様包のうの癒着を剥離し、前回手術の吻合部を再切除して胃腸吻合をしたが、手術後の手当の甲斐もなく、同月二三日忠行は死亡するに至つたこと、以上の事実はいずれも当事者間に争がない。

(二)、忠行の死因について。

原審における鑑定人稲生綱政の鑑定の結果及び当審における鑑定人島田信勝の鑑定の結果によると、中島忠行の死因は直接には、同人の全身的衰弱が第二回手術による侵襲に堪えられなかつたためであると認められる。而して第二回手術の必要性については争があるが、それは暫らく措き、右の全身的衰弱の原因を探ぐると、原審及び当審における証人鈴木正弥の証言、前記鑑定人島田信勝の鑑定の結果及び鑑定人稲生綱政の鑑定の結果の一部によれば、訴外田中達医師の第一回手術におけるビルロート第二法による胃腸吻合部位が正常(空腸曲より肛門側へ四〇糎前後の位置に胃を吻合するのが正常である)でなく、空腸曲より肛門側へ一米五〇糎ないし二米の部位であつて、輸入脚(吻合部より口側えの腸管)が長くなりすぎ、これに加え吻合部の癒着及び小腸が被膜に包まれて一塊となつているという忠行の腹腔の特異構造から来る右被膜による小腸の圧迫等が重なつて、吻合部に通過障害(通りにくいこと)が起き、胆汁その他食物が輸入脚或いは胃に停滞したこと、以上が主因となつたほか、胃の約三分の二を切除し、残胃を前記の部位に吻合したことによる消化吸収過程の短縮、中島忠行の低酸症も原因して、下痢が続き、栄養障害から全身的衰弱を来すに至つたものと判断され、右認定にそわない前記稲生鑑定及び原審証人稲生綱政の証言の各一部は採用しない。

(三)、そこで被控訴人主張の諸点、即ち田中達医師が胃を空腸曲より肛門側へ一米五〇糎ないし二米の部位に吻合したことが、同医師の過失によるものであるが、退院後再入院までの間における田中医師及び控訴人の措置に医師として粗漏がなかつたか、再手術は必要であつたか、その時期は適当であつたかについて順次検討することとする。

(イ)、田中達医師の第一回手術における吻合部位について。

成立に争のない乙第一号証、原審における相被告田中達本人尋問の結果、原審及び当審における証人鈴木正弥の証言並びに原審における控訴人楠本好雄本人尋問の結果(第一回)によると次の事実を認めることができる。

昭和三五年一一月三〇日医師田中達執刀のもとに中島忠行の胃切除手術をすることとなり、同人の上腹部を正中切開してみると、胃の直下にあるべき横行結腸が見えず、そこは大きな被膜(膜様包のう)に覆われて小腸全体がこの被膜の下になり、横行結腸は被膜の下後方に圧迫されて腰腔に入つていた。このため正常の吻合部位たる空腸曲から約四〇糎の部位の小腸をとり出し、ここと残胃とを吻合するためには、被膜を切開して広範囲にわたつて小腸を被膜より剥離するほかなかつたが、かゝる処置は手術による侵襲を極めて大ならしめるものであり、仮りにその手術が成功したとしても、術後患者に与える負担の大なることを憂い、田中医師は右の手段をさけ、トライツ氏靭帯と思われるあたりの被膜を約三分の一縦に切り、ここから探つて行き、やや輸入脚が長めとなるが、最も無理のないと思われる部分の小腸を引出して、切除した胃の残部の断端と右の小腸の部位とを前記被膜を越えて吻合(所謂ビルロート第二法)した。ところが、術後昭和三六年二月上旬の検査で、右の吻合位が肛門の方へ寄りすぎていることが判り、更に又再手術のときその位置が空腸曲より肛門側へ一米五〇糎ないし二米の個所であつたことが確認された。以上の事実が認められる。この吻合部位が適正でなかつたという結果だけを取上げてみると、一見田中医師に過失があつたのではないかという疑があるけれども、前顕証拠に原審鑑定人稲生綱政の鑑定及び原審証人稲生綱政の証言を総合すれば、次のように考えられる。すなわち前記被膜(膜様包のう)の存在は極めて珍らしいことであつて、現に田中医師は過去約一〇〇〇人について胃切除手術を施した経験があるが、未だかつてこのような例に会つたことがなく、第一回手術に先立つて撮影したレントゲン写真にも被膜が写つていなかつたので、田中医師は手術に当つて膜様包のうと言う特異のものの存在を全く予知しなかつたし、又し得なかつた。而も被膜によつて横行結腸は後下方に押下げられ、空腸曲の位置も通常人と異なつていたので、このような場合ビルロート第二法により正常部位において胃腸を吻合するためには、被膜を切開し広範囲にわたつて小腸を被膜より剥離しなければならず、かゝる手術は、相当熟達した外科医でも被膜についている血管を切断してしまうこともあり得る程、危険を伴う手術であり、仮に成功しても、この手術による侵襲が極めて大きいことが予想されるのみならず、他面一般的に見て、輸入脚がある程度長いと言うだけでは、消化吸収上さして障害となるものでない(前記稲生鑑定によれば、全小腸の二分の一までの切除は安全であるという研究もあることであり、中島忠行の場合はその限度まで達していないし、前認定の通り、これだけが下痢の原因をなしているものでなく、被膜の圧迫、吻合部の癒着も又その大きな原因をなしているのである)から、これらのかねあいを考慮し、田中医師が開腹後の忽々の間に、膜様包のうの広汎な剥離という危険な手術を避け、自己の長年にわたる経験に基き適当部位と思われる箇所に吻合したが、それが偶々肛門側に寄り過ぎていたことを捉え、正常部位に吻合しなかつた点に過失があるとして、同医師を責めることは、結局同医師に敢えて危険な手術を強いるに等しく、躊躇せざるを得ないところである。

尤も成立に争のない乙第三号証、原審及び当審証人鈴木正弥の証言によれば、鈴木正弥医師は昭和三六年二月一八日中島忠行に対し再手術を施し、第一回手術による胃腸吻合部を切除し、膜様包のうを切開して小腸を剥離し、ビルロート第三法により胃を空腸曲より肛門側へ三〇糎の部位において吻合したことが認められ、この事実から推せば、第一回手術においても正常部位に吻合することが可能且当然の如く察せられないでもないが、前記鈴木証言によれば、鈴木正弥医師は手術前田中達医師より忠行の膜様包のうの状態を聴取してこれに対する充分の知識を持ち、始めよりその剥離を予定して手術したのであるから、かゝる場合と手術前全然その存在を知らず、開腹して始めて滅多にない膜様包のうという特異の体質に逢着した場合とを同視し、第二回手術で執つた措置を第一回手術時にも要求することは、比較の対象において当を得ないばかりでなく、前記認定の事実と成立に争のない乙第四号証の七ないし一二によれば、忠行は第二回手術時の昏睡より醒めないまゝ手術の侵襲に堪えられずに死亡してしまい、結局第二回手術は失敗したと言つてよいのであるから、この点から見ても、第二回手術と比較して第一回手術の不当を鳴らすことは妥当を欠くものと謂わざるを得ない。

なお又当審における鑑定人島田信勝の鑑定は、第一回手術の過失の有無を鑑定事項としておらず、第一回手術において膜様包のうを広範囲に剥離することの当否についての判断を示していないので、右鑑定によつて第一回手術に過失があると判定することは相当でないし、原審証人菅原政敏の証言は前記稲生証言に照らし採用できず、他に第一回手術につき田中達医師に過失があつたことを肯定するに足りる証拠はない。よつて、この点に関する被控訴人らの主張は採用できない。

(ロ)、第一回手術後の退院時より再入院時迄に田中医師及び控訴人らの採つた措置に医師としての過失があるか。

原審における被控訴人中島梅野本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第五号証、いずれも成立に争のない乙第二号証の六ないし二七、乙第四号証の一ないし六、乙第五号証、原審における田中達本人尋問の結果及び控訴人楠本好雄本人尋問の結果(第一、二回)、当審鑑定人島田信勝の鑑定の結果を綜合すると次の事実を認めることができる。昭和三五年一一月三〇日の第一回手術後忠行の容態は一過性の嘔吐、吐き気があつたが、概ね順調に経過したので、同年一二月二二日退院したところ、数日にして消化不良性の下痢がおきたので、忠行は同年一二月二五日頃から子供をつかわして控訴人から胃腸薬を貰いうけて服用していたが、快方に向わなかつた。翌年一月八日には肛門部から相当量の新鮮血の出血があつたので、同年一月一〇日自ら病院に赴き、控訴人らの診断を受けたところ、衰弱がひどかつたので、輸血をうけると共に胃腸薬を貰つた。その際控訴人より再入院をすゝめられたが、その理由としては輸血の都合ということだけを告げられたので、忠行は通院ですませたいと拒わつた。それで控訴人らは、通院のまま、貧血に対しては二〇〇ccの輸血を六回実施し、下痢に対しては塩酸リモナーデ(低酸のため)ペプシン(消化剤)、硝蒼、タンナルビン、アドソルビン(止痢吸着剤)の投薬を行い、栄養障害にはモリアミン一〇〇cc四回、肝庇護としてメチオニン、ビタミンB、C、ブドウ糖の混合静脈注射七回を施行し、自宅における食餌療法については一月一一日に素通りでも栄養を摂るよう指示し、一月二三日には塩分を摂りすぎぬよう注意した。この間一月一七日の胃液検査の結果、一二指腸に残つたと思われる胆汁が吸引されたし、依然衰弱がひどかつたので、控訴人らは忠行に対し体力の回復と兼ねて手術部位の再検査のため、重ねて入院をすゝめたが、忠行は通院を固執した。ところが依然水様性の下痢は止らず、顔面浮腫、全身の脱力感、倦怠感が続き、衰弱が回復せず、同年二月八日の造影透視により、膜様包のうの圧迫による通過障害の疑があり、且前回手術の胃腸吻合部位が下部に過ぎていると認められたので、控訴人、田中達医師、鈴木正弥医師が協議の結果、再手術の必要があると判断し、その旨忠行に告げたので、前記の通り同年二月一二日再入院することとなつた。なお出血は前記一月八日以外になく、右出血は軽度の内痔核によるものと判断され、その手当をうけた。以上の事実が認められる。

そこで控訴人らの執つた右の措置に医師として過失があるか否かを調べてみると、当審鑑定人島田信勝の鑑定によれば、貧血は輸血により回復しているし、下痢及び栄養失調に対しては投薬及び栄養剤の注射を行い、入院をすゝめているので、控訴人らのとつた処置に何ら過失はなく、ただ食餌療法の指導については不明不徹底の点が見られるが、後記(ハ)の通り、忠行の下痢及び栄養失調の原因が普通一般の胃切除手術後の消化吸収障害よりも、輸入脚のうつ滞に主たる原因があると判断され、後者は外科手術により是正するほかなく、食餌療法では効果を期待できないので、結果的には食餌療法の不徹底が下痢や栄養失調の原因であると判断できにくいことが認められる。従つて第一回手術後退院時より再入院時までに控訴人及び田中医師らの執つた措置に医師としての過失はなかつたと謂うべきであつて。右認定に反する原審鑑定人稲生綱政の鑑定、原審証人稲生綱政の証言は前記島田鑑定に照らし採用しない。

(ハ)、第二回手術の必要性について。

原審及び当審証人鈴木正弥の証言によれば、第二回手術の目的は、膜様包のうによる小腸の圧迫、吻合部の通過不全(通りにくいこと)及び吻合部位をそれぞれ是正し、以つて忠行の下痢及び栄養障害の原因を除去しようとしたものであることが認められる。而して当審における鑑定人島田信勝の鑑定の結果によれば、前認定の諸事実、即ち第一回手術における胃腸吻合部位が空腸曲より肛門側へ一米五〇糎ないし二米の部位で、輸入脚が長過ぎたこと、胃液検査の際胆汁が吸引されたことより、輸入脚に一二指腸液を中心とする著しいうつ滞が推定されたこと、造影透視の結果、膜様包のうの圧迫によつて吻合部に通過障害の疑があることがわかつたこと、内科的保存療法によつても下痢や栄養障害が快方に向わなかつたこと等の事実から判断し、右の下痢及び栄養障害は、普通一般の低酸症の胃切除後に惹起される消化吸収障害よりも、主として腸管の通過障害(通りにくい)及び輸入脚の著しいうつ滞に原因するものと判断するのが相当であり、してみれば第二回手術の必要性は当然肯定されねばならないことが認められ、右認定に反する原審における鑑定人稲生綱政の鑑定及び証人稲生綱政の証言は採用しがたい。

(ニ)、第二回手術の時期について過誤があるか。

前記甲第五号証乙第四号証の一ないし六、乙第五号証、いずれも成立に争のない乙第四号証の七ないし一二、前記鑑定人稲生綱政の鑑定の一部、証人稲生綱政の証言の一部及び島田信勝の鑑定の一部によれば、中島忠行は昭和三六年二月一八日の第二回開腹手術当時、貧血は再入院前後にわたる輸血により充分回復していたが、水様性の不消化の下痢症状は第二回手術時まで一進一退の状況で続き、同年二月七日当時顔面浮腫があり、手術三日前まで脱力感、倦怠などの体力低下を訴えており、これらの事実から推せば、中島忠行は再手術時脱水状態にあり、且全身的に衰弱していたことを認めるに充分であること、忠行が明治三六年七月二六日生れの老体であること(生年月日の点は争がない)、一方胃切除手術後の通過障害に対する再手術による手術死亡率は二八・六%といわれ、相当高度のものであり、特に本件の如く膜様包のうに小腸全体が包まれているという特異の患者に対し、膜様包のうを広範囲に剥離する手術は危険度が高く、患者に及ぼす侵襲も極めて大きいことは前認定の通りであること、結果的にも中島忠行は第二回手術時の昏睡からさめないまま、術後の手当の甲斐なく同月二三日死亡したこと、他方第二回手術を実施しなかつた場合中島忠行の生命が一ケ月保持されるか、一ケ年保持されるかは、同人の貧血の回復が早い反面水様性の下痢が続いていることに照らし判定が困難であるが、少くとも当時死亡の危険がそれ程切迫していたとは断定できず、なお相当期間生きてゆけたであろうと考えられること、以上の事実を綜合すると、再手術の必要が肯定されるにせよ、前記日時にこれを実施することは、手術の侵襲による死亡の危険が手術を実施しないことから生ずる身体衰弱による死亡の危険よりも遙かに大きかつたものと判断され、従つて、鈴木正弥医師、田中達医師及び控訴人はこれらの点に十分の注意を払い、中島忠行に対する第二回手術の実施はこれを差控えるべきであつたと考えられるのであつて、右認定に反する原審当審証人鈴木正弥の証言、原審における田中達及び控訴人各本人尋問の結果は措信できない。然るに右鈴木正弥の証言、田中達及び控訴人各本人尋問の結果によれば、鈴木、田中及び控訴人の三医師は協議の結果全員一致の意見で前記日時に第二回手術を実施することを決定し、鈴木の執刀、田中及び控訴人の立会の下にその手術を実施したのであるが、このことはすなわち右三医師がその手術の時期を誤つたものに外ならず、この点において同医師らは業務上過失の責を免がれないものというべきである。もつとも右田中達及び控訴本人の各尋問結果によると、控訴人らは自己の病院で実施した第一回手術の胃腸吻合部位が適切でなかつたことと予後の不良に心を痛め、第二回手術が必要であると判断した以上何とか早くこれを実施して、衰弱の原因を除去しようという気持を持つていたように察せられるが、かような事情があるとするも、もとより控訴人らの過失を否定するわけにはゆかない。この点に関する島田鑑定中には一部に控訴人らの過失を否定する文言を使用しているけれども、全体として理解するときは然かく解すべきものでないと判断されるし、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

されば控訴人は、医師として同人自身の医療上の過失により、又控訴人の依頼によりその経営する鎌倉ヒロ病院の顧問外科医として毎週定期的に患者の治療に従事している(この事実は原審証人鈴木正弥の証言で明らかである)鈴木正弥医師及び同病院外科部長田中達医師の各医療上の過失によりその使用者として、忠行や被控訴人らの受けた損害を賠償する義務があるものと謂うべきである。

(四)、損害額について。

被控訴人らは本件不法行為に因る損害として、先づ忠行が爾後健康体として稼働できることを前提とし、以つて同人の得べかりし利益を請求するので按ずるに、さきに触れた通り、再手術当時忠行は下痢及び栄養障害により全身的衰弱の状態にあつて、右の症状は外科手術によるほか、根本的な治療方法がなかつたのであるから、控訴人らが前項に述べたような過誤をおかすことなく、慎重に事を運び、再手術を控えたとしても、忠行の下痢及び栄養障害が治癒されるであろうとの予想をたてることは、本件の場合困難と言わざるを得ないのである。してみれば忠行に対する第二回手術がなかつたとしても、同人が健康体として普通人のように稼働することの不可能であることは勿論、普通人の労働力の一部をも保持することは到底期待できないところであるから、忠行にかかる労働力のあることを前提とする被控訴人らの主張は採用できない。尤も被控訴人らの主張によれば、忠行は旧海軍々人として普通恩給年額手取り金一二万九四六八円を受給していたというのであるが、一方同人の一ケ年生活費として金九万五三八七円を要し、更に死亡の場合は遺族扶助料として前記普通恩給額の半額が支給されるというのであるから、損益相殺の結果、得べかりし恩給額を損害として請求しえないことは算数上明らかである。

次に被控訴人らの慰藉料の請求について按ずるに、被控訴人梅野が忠行の妻、被控訴人淑子、同照夫、同明子及び同和夫がいずれも忠行の子であること、忠行は死亡当時五七才七月であつたことは、いずれも当事者間に争いがない。そして成立に争のない甲第一ないし第三号証、原審証人中島親孝の第一、二回証言及び原審での被控訴人中島梅野本人尋問の結果によれば、忠行は昭和七年六月六日被控訴人梅野と婚姻して、昭和九年に被控訴人淑子、昭和一三年に同照夫、昭和二〇年に同明子、昭和二三年に同和夫を夫々儲け、若年の頃軽度の胸部疾患があつたけれども全治したこと、忠行は海軍々人で戦時中大佐迄昇進したこと、死亡数年前から、横須賀市追浜の駐留軍傭員として勤務し、昭和三五年中の給与手取総額は金四五万二八五五円であつたこと、駐留軍傭員の整理のため、忠行は昭和三六年三月中には解雇される見込みであつたが、実弟の世話で他に就職のめどがついていたこと、忠行は恩給法による普通恩給の支給を受けており、昭和三四年四半期の第一期分の交付額は金三万二三六七円、従つて同年中の交付額は金一二万九四六八円であつたこと、忠行の死亡当時被控訴人梅野は家庭にあり、同淑子は逓信病院に勤務し、月収約金一万四〇〇〇円を得ていること、同照夫も会社に勤務し製図関係の業務に従事して月収金一万四〇〇〇円を得、同明子及び同和夫は夫々高校生、中学生であつたことが認められる。右の事実と忠行の第一回手術より死亡時迄の上来認定の諸事実、殊に第一回手術の吻合部位の不適正が危険を冒して第二回手術を敢えてした一因をなし、その第二回手術の侵襲により死亡したこと、この事実についての被控訴人らの痛惜の情を考慮すると、被控訴人梅野につき慰藉料を金一〇万円、その他の被控訴人らにつき慰藉料を夫々金五万円とするのが相当である。

(五)  よつて控訴人は被控訴人らに対し右各金員及びこれに対する本件不法行為の後である昭和三六年二月二四日以降完済迄年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるから、被控訴人らの請求は右の限度でこれを認容し、その余の請求は棄却すべきものであるから、これと異る原判決を右の通り変更することとし、民事訴訟法第三八六条第三八四条第九六条第九二条第九三条第一九六条に則り主文の通り判決した。

(裁判官 岸上康夫 室伏壮一郎 斎藤次郎)

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